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モーツァルト『フィガロの結婚』 ケルビーノと伯爵夫人についての雑感

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    モーツァルトの『フィガロの結婚』に流れる美しい音楽の背景には、
    ユニークな管弦楽法やドラマトゥルギーがある。
    たとえばそれをケルビーノと伯爵夫人との関係で見てみよう。

    原作のボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』では、はじめに
    「登場人物の性格と衣装」が述べられている。これに従って、ケルビーノ
    (原作ではシェリュバン)と伯爵夫人についての記述を見てみよう。

    シェリュバン。この彼はこれまで通り若くてたいへん美しい女によってしか演じられてはならない。つまり、この国の劇場には、繊細で優美な雰囲気を感じさせるような姿の美しい男の子がいないのである。伯爵夫人の前ではひどく恥ずかしがるが、よそでは可愛いいたずらっ子である。漠とした欲望に揺れ動く心が彼の性格の根底になっている。彼は青春に向かって、あらゆる出来事に向かってぶつかっていくが、当てもなければ知識や経験もない。こんな子をもてば母は苦労するかもしれないが、すべての母が心のどこかでこんな子を持ちたいと思う、そのような少年である」

    これに対して伯爵夫人のほうはどうであろうか?

    伯爵夫人の心は二つの相反する情緒の間を激しく揺れ動く。しかし外に対しては
    気持ちを抑えて表すしかないし、怒りも弱めて表現し、少なくとも彼女の優しく貞淑な性格が観客の目にはしたなく映らぬようにせねばならない。この役はこの劇の中で最も難しく、サン=ヴァル嬢のような偉大な才能の見せ場である。」
    (以上引用は石井宏訳による)

    ダ・ポンテとモーツァルトは、原作に従ってケルビーノを女性に歌わせている。
    ケルビーノはシェリュバン(Cherubin)のイタリア名で、ボーマルシェの原作で、
    バジル(バジリオ)が「恋のケルビーノ」と言っているところから来ているのだ。

    モーツァルトは両者のそれぞれの性格と微妙な関係を、登場から見事に表現している。

    No.6アリア ケルビーノ "Non so più"
    ケルビーノの揺れ動く心は、この下降する旋律を反復音型で伴奏し
    強弱のコントラスト(fとp)によって表現されている。しかも、
    伴奏する弦楽器(ヴァイオリン)には弱音器が用いられている。
    若い男のテンポの速い曲で弱音器が使われているのは注目に値する。
    これはケルビーノのまだ定まらない未熟さを音色で表現しているようだ。

    No.11(10)カヴァティーナ 伯爵夫人 "Porgi amor"
    オペラでは伯爵夫人は第2幕になってようやく登場する。そして
    そこで歌われるカヴァティーナは17小節にも及ぶオーケストラの
    前奏で始まる。その音楽にはまったく無駄がないばかりか、「二つの
    相反する情緒の間を激しく揺れ動く」彼女の性格を雄弁に表現している
    かのようだ。彼女は決してケルビーノのように感情を顕わにしない。
    「さもなくばせめて私を死なせてください」(35-36小節)と歌う
    時でさえ、激情的になることはなく、まさに高貴に抑制されている。
    モーツァルトはここで彼女に下降ではなく上降音型で、歌わせている。
    「死なせて」morirでもっとも高い as" になりフェルマータで留まる。

    この曲で彼女がクレシェンドを伴って大きく歌うのはここだけ。
    この後同じ歌詞が二度繰り返されるが、声を大きくすることはない。
    あたかも自制するかのように。

    これだけとってみても、モーツァルトの表現はすばらしい。
    だが、さらに詳しく見てみると両者にはいくつかの共通する要素が
    隠されている。

    1.同じ調性: 変ホ長調

    2.同じ楽器編成:弦楽器、クラリネット、ファゴット、ホルン

    3.音型の類似

    ある曲にどのような調性や楽器編成を用いるかは、作曲家にとって
    重大な関心事であったはずである。テンポこそ違うが二つの曲が
    同じ調性であること、さらに楽器編成まで同じということはとても
    偶然とは考えられない。モーツァルトが二人の微妙な関係を
    同じ調性・楽器編成で暗示したと考えてよいと思う。
    ここまでなら、まだ普通の作曲家でも考えられることであろう。
    しかしモーツァルトは、二人に同じ音型を与えているのだ。

    ケルビーノのアリア第67-69小節の部分を見てみよう。ここでは
    下から一気にオクターブと2度上に上がっている。
    伯爵夫人はというと第41-42小節で、やはりオクターブと2度上に上がっている。
    これを比較したのが下の譜例である。


    順次進行で上がりきった音から3度下がるところまで同じである。

    伯爵夫人にあこがれるケルビーノ。そしてそのケルビーノを愛しく思う伯爵夫人。
    前者の直接的な表現に対して後者の抑制された表現。二人の間の微妙な関係は、
    こうして音楽的に関連付けられている。舞台上演においては、時間の経過
    (場面が離れている)があるために、瞬時に意識できるものではないだろう。
    だが、劇が進行するにつれて、無意識のうちに私たちの感覚の中に
    それをすべりこませてくる。それがモーツァルトの音楽なのだと思う。
    la fontaine * モーツァルト * 00:42 * comments(4) * trackbacks(2)

    コメント

    この考察を拝見して、よりモーツァルトのオペラの深さがわかってきました。すごくおもしろいです。

    >あおさん
    morirの言葉遊びについて、もっと調べたいのですけど、おすすめの文献ありますか?
    演劇史のジャンルなのでしょうか。
    (これをあおさんが見てくださるかは不明ですが・・・)
    Comment by ほりか @ 2011/01/18 12:09 PM
    あおさん、コメントありがとうございました。
    モーツァルトの「フィガロ」の第2幕冒頭の伯爵夫人のカヴァティーナは、大変に興味深いです。というのも原作のボーマルシェにはそれに相当する部分がなく、完全にダ・ポンテとモーツァルトによる創作部分だからです。ちなみに第3幕の伯爵夫人のレチタティーヴォとアリアもボーマルシェにはありません。歌手のためにアリアを作らなければならいという事情はあったにせよ、伯爵夫人の重要な独唱曲が二つともオペラのために創作されたということは、それだけに非常に興味深くまたいろいろ考えさせられます。

    カヴァティーナはご指摘のように、「死なせて」という言葉は一度目はクレシェンドで上降音型に現れ、しかもこの曲の最高・最強音に達する。たしかにエクスタシーの頂上に上り詰めることが感じられます。
    そのあと三度「死なせて」と歌われますが、最後は最低音のレにまで下がっています。音域的にもソプラノとしては声が通る音域ではなく、まさに声を潜めた感じがでています。
    あらためてモーツァルトの音楽劇作家としての手腕に感服させられます。
    Comment by Fontaine @ 2007/04/13 10:54 AM
    追伸です

    かつて、こんにゃく座で「フィガロ」を日本語上演した時、その部分の歌詞は「私どうにかなっちゃうわ〜!」となっておりました。

    ま、こっちの意味だけになっちゃうのもなんだかなあ…と個人的には思いますが……
    Comment by あお @ 2007/04/12 8:43 PM
    おおおおお!
    フィガロですねえ!!!
    分析をウキウキしながら読みました。
    そこで、芝居屋さん感覚でひとつ……

    「私を死なせて!」と切なく歌う伯爵夫人……
    この「死ぬ」という言葉が実はくせ者なのです。
    女性が舞台の上で「死ぬ」と口にした場合、意味は2つあります。
    一つは文字通り「命を失う」こと
    そしてもう一つは「エクスタシー」つまり頂点に上り詰めること……

    これは、シェークスピアの芝居などにも見られることで、まだ、照明などの舞台エフェクトが充実していなかった時代、観客の耳を惹き付けるために、隠語めいた言葉遊びが見せ場の台詞に施されていたのです。
    その一つが「Die/死ぬ/Morir」でした。

    伯爵夫人がキリスト教の神ならぬ「愛の神」に「死なせて」と訴える時、同時に置き去りにされた若い女がたった一人の時にした口にできない赤裸々な願いも姿を現すのです。ですから1度はクレッシェンドしても、それ以降はひそめた声でしか口にできないのですねえ。

    ちなみに、当時、女中や小間使いは人間扱いされていませんので、同じ部屋にいても、相手にはされません。
    Comment by あおさん @ 2007/04/12 8:38 PM
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    From モーツァルト大好き! @ 2007/06/01 8:08 AM

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